2009年01月12日
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神田川を越えて続かない美宿橋の存在意義は何か

Written By: 川俣 晶連絡先

 桜上水Confidentialさんより「下高井戸吉田園についての暫定まとめ」へのエールとしてエールを頂きました。ありがとうございます。

 この件は現時点では何も確定的なことは言えません。漠然とした感触から可能性があると考えているのは以下の点です。

  • 龍泉寺北部から大慈会総本部あたりが最有力候補ではないか
  • 永福通りの付け替え工事によって所在地は影響を受けているのではないか (下高井戸橋はこのときに作られた橋)
  • 吉田園の敷地や施設の一部が大慈会総本部に継承されている可能性があり得るのではないか

 しかし、ここで書くのは別件です。

「下高井戸吉田園についての暫定まとめ」へのエールより

関東大震災前のさしたる人口も居ない時代の玉川上水に、そんないくつも橋が架けられていたわけはない。

しかも、美宿、小菊とは、他の橋の無機質な名前とは異なり、何やら意味ありげな名前に思えてきた。しかも、このふたつ。玉川上水は渡るが、さらに坂を下り、神田川を渡ることにはなっていない。

つまりは、玉川上水を渡るだけのための橋。

なるほど、これらの橋は、神田川を望む高台にある料理屋(待合?)に、玉川上水を渡って行くための橋と見れば、がてんがいくではないか。

 美宿橋と小菊橋に関しては、農業を行うために必要とされた、という解釈も可能です。

 このあたりの農家は神田川沿いの低地を農地として、甲州街道に近い高台に家を構えるのが基本的なスタイルでした。実際に、高台の家から低地の農地に農作業に出向く光景を昭和50年ぐらい(極めてアバウトで正確な記憶ではない)までは実際に見ています。

 このとき、このあたりでは玉川上水が高台の縁に沿って流れる関係上、どうしても農作業に出向くには玉川上水を渡る必要が生じます。橋の有無は農作業の効率に直結したのだろうと思います。

 (しかし、このときに見た近所の方は既に故人なので、もはや話を聞くこともできません。残念)

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